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早稲田大学 稲門スキー倶楽部
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早稲田大学スキー部のOB、関係者とスキーファンのページです。お知らせしたいことをご連絡ください。(依田敬一:yodak1jp@yahoo.co.jp)

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ブログリニューアルのお知らせ
稲門スキー倶楽部のブログをリニューアルいたしました。
それに伴い、URLも下記の通り変更になりました。

http://www.wasedaski.net/tomonski/

お手数ではございますが、ブックマークしていただいている皆様には
上記のURLでブックマークしなおしていただけますようお願い申し上げます。

# by tomonski | 2008-05-16 23:03
5月10日、ホームページの編集会議が行われました
大隈記念タワーにある西北の風で、ホームページ制作者の西川徹さんを囲み、倉田監督と学生2名(清水宏康、畠山長太)に、日野水挙(H17) と依田敬一が加わってホームページの更新や編集方針の打合せを行いました。制作を担当していただいた西川さんのご協力に改めて感謝したしだいです。
# by tomonski | 2008-05-11 11:17
5月9日、稲門体育会の総会が行われました
5月9日18:00からリーガロイヤルホテルで平成20年度の早稲田大学・稲門体育会の総会が開かれ、稲門スキー倶楽部からは、代表委員の山田脩一さんほか、佐々木会長、宮島啓、高波松男、渡部新、西澤直、倉田秀道、依田敬一が出席しました。
125周年に合わせ体育各部の好成績が目立ったことで例年になく多くの関係者が参加して賑わいを見せていました。 会長挨拶:河野洋平、司会進行:露木茂
# by tomonski | 2008-05-11 10:50
スキー部五十年史に見る東伏見合宿所の建設
所沢にある現在の合宿所は、平成2年(1990)に東伏見から移転しました。
折りしも、収容人員不足で増改築中ですが、47年前、同様のケースで東伏見合宿所の建替えにご苦労された当時のマネージャー山田脩一氏が五十年史に寄稿した「連続優勝の美酒」の中にある、東伏見の合宿所建設に関する一章をご紹介致します。
(いずれ全文をご紹介いたします。)
写真は、平成2年移転を惜しんで記念撮影。後方が東伏見合宿所

  

新合宿所建設  (編集者注・昭和36年完成/東伏見)

                               山田脩一(昭和38年卒)

さきにも書いた通り、メンバーが本年は二十五名になり、合宿所一軒には全員入ることができず、いきおいチームワークにも欠けることになった。そこで山田の急務は合宿所新築にあった。
池田マネのとき東伏見に移って来たものの理事会の議題にも完全な形では出されなかった。前からあった古い宿舎を改築したものが、われわれにあたえられていたのだが、新合宿所の必要性を大学当局に申し入れ、理事会の議題に入れてもらってから三ケ月の間に四回の取り消しがあって、難産このうえもなく、ようやく八月二十三日に地鎮祭にこぎつけた。

大学の新年度は四月から始まるので四月上旬から監督と相談して大学当局への働きかけを検討した。これにはまず林部長にとりあえず強力にバックアップしていただくことと、OBをフルに大学当局の方に来ていただき陳情これつとめた。富永さんには体育局長の安井現スキー部長に、朝日新聞での知り合のよしみと前監督のスキーに対する説明と、また馬場さんにはちょうどその時証券取引所の常務理事でご多忙であったにもかかわらず、母校の大学院で証券実務の講師をなさっていたので、理事会当局に、そして龍田監督には現場である営膳課へ再三再四来校していただき、よぅやく理事会でのOKを取った時はすでに六月の末であった。辛らく歯がゆい思い出が今も残っている。馬場さん、龍田さん、その他幾人ものOBが来校され、大学当局の人々と逢っていただいたとき、決まって出る言葉は、スキー部はいつも負けているね、といういやみのあるアイサツが多かったという。六月の初めに竜田監督が来た時は、さすがに竜田さんも“松井、どうしても本年は勝たねばいけない。どうしたらよいか、もう一度ここで計画を練りなおすように“と、松井さんとともに高田牧舎で昼食をとりながらいわれたこともあった。

この間、四、五、六月の三ケ月の間に、私は毎日営膳課に行って花崎課長にかけあい、現況を説明した。この頃は営膳課は第二学生会館の三階にあったが、さすがににべもなく毎日ことわられるので、三階への階段は長く見えた日もあった。時には花崎課長をぶんなぐろうと思ったこともあったし、また階段の前までいっては池田靴店に帰り、オジサンと相談して出なおしたことも再三であった。この時なぜ私のみがこんなことをするのかとつくづくいやになり、池田のオジサンや龍田監督夫人に常に相談した。そしてなだめられてはまた体育局、営膳課、そして理事室の秘書に応援部の田古島さんがいたので、各理事にあったときはこれこれを耳に入れてくれるように、時があれば必ず頼みに行った。理事にはスキーそのものを全然理解しない人が幾人もいた。

理事会のOKは六月末に出たが、OKが出る前に営膳課に依頼して合宿の問題については充分に註文をつけていた。花崎課長はいつも一笑にふしていた。しかし設計の方の加藤さんというかたはいろいろと話を聞いてくれた。これが唯一の私のなぐさめでもあった。間取りに関しては龍田監督の意見を全面的に押し出した。収容人員は二十五人、これは一学年各種目二名の六人、四学年の二十四人とマネジャー一人ということ、おばさんの部室、そして居間兼食堂はなるたけ広くとる。これは二十五人の生活をささえる全員の広場であることに留意した。またスキー用具のための風通しのよい置場、そして選手は毎日がライバルとの心理的な競走であるし、共通してみな神経質である。そのため、一人一人の時間を充分にとれるようにべッド式の一部室方式、新人のための和室、これは新人はチームワーク形成のため同一に生活した方がより効果的との判断による。これらから最大限に出来る大きさを考えて、また合宿所そのもののデザインは向かいの競走部と相似形にして競走とスキーの合宿所の真中に大樹をとりつけることにした。

しかしこうしているうちに七月になり、大学は夏休みに入ってしまった。そのうち黒田理事がどうしてもスキー部の東京に合宿所を建設するのに反対するので、理事会の意向は取り消すとの件を体育局から連絡があったときには、これほどびっくりしたことはない。  
これはOKが出た理事会に黒田理事が出席していなかったので、事後報告には納得がいかないとのことであった。黒田理事の意見はスキーは冬するもので、東京に合宿所を建設するよりも、どこかスキー可能な山に建設すべきだという論であった。その時私は教授というのは自説を頑固にいいはることではまれに見る怪物だとおどろいた。私は松井主将にすぐ連絡をとり、前後処置をどうするか相談し、龍田監督とも電話し、その日のうちに林部長に面会に行った。というのは部長は三日前に盲腸で築地の聖路加病院に入院中であった。松井、宮川、山本と四人で見舞かたわらこの件を話して相談したところ、部長はちょぅど今日から少し歩ける段階だ。だがありありと義憤を顔に表わし、その場で村井理事長に電話した。丁度大学に理事長もいたので、話は進んだのだが、この時部長は電話で理事長に“村井さん、私は二日前に腹を切っているので、長いこと話せないが、この件で学生が私のところに来ているが、私を怒らさせるのにわざわざこんなことをしているのですか、あなたが理事会で決定した事項を取り消すのはあなたの責任だから、黒田理事によくあなたから説明して明日までに私の所に連絡して下さい”ものすごいけんまくであり、部長も学部長になる一年前で四十八歳の若さも手伝ってのことであろうが、この時は私たちの方でびっくりした。そしてつぎの日、理事室で村井資長理事長に会って、黒田理事とは了解がついたから、との返事をもらってほっとして、私は帰郷し、酸ケ湯合宿に八月二十日に入った。大学から二十日夜、電報で二十三日に地鎮祭をやるのですぐ上京せよとのことで、その足で上京し、二十一日、二十二日と電話で各先輩に連絡し、盛大に地鎮祭を済ませて、完成したのが十月末であった。ここでこの合宿所建設に対して多大のご寄附を三馬ゴム株式会社吉村伝次郎氏よりいただき、またOB各位よりも多額の寄附をあおぎ完成にこぎつげましたことを報告します。

六月十三日に石神井公園で駅伝が行なわれた。この年は早稲田と立教が当番校であった。試合には早稲田も強化メンバーで二チーム出場した。結果はラップタィムを比してもかんばしいものではなかった。これは五月からの練習方法にも一因があると思うが、それは微々たるものであろう。試合終了後主将、主務の親睦会が行なわれ、この時他校より在京駅伝に参加する早稲田の意識問題がとりあげられて松井主将ともども随分とにがい酒であった。帰りに主将と二人で本日の結果について分析してみた。それは他校が指摘の通り早稲田の選手に気迫が欠けていると見られるに充分なデーターであり、とくに自分には寺田のタイムが気にくわなかった。寺田は青森県の陸上で五000メートル、一五00メートルの選手権保持者であり、その気で走れば、北村(日大)や井上(日大)などの比ではないはずであった。合宿所はこのころ新築のためグリーンハウスに移っていたのだが、酒の勢いも加わり一年、二年を集めた。

親睦会での他校の非難と今日の戦果を述べて、特に距離陣の寺田、成田、佐々木亮らを叱院した。しかしこの時、寺田より異論が出て、舌戦となったが(彼はこの時酒気をおびて論ずるの非をとがめた)大坊が中に入って出て、その場はおさまった。ただこの時私自身のうっぷんもあったのだが、前期の第一回のタイムレースで寺田と同タイムで一位になったこのことが私には無精にしゃくだったのだ。私は仕事の関係でしばしば練習を抜けていたにもかかわらずこの状態である。この気力のなさに対する憤懣でもあった。しかし幸いなことに次の日から六日町の三羽烏や中村、成田、高本たちが発奮してくれた。一週間ぐらいの間に二年も三年も今までにない気迫をみせるようになった。間もなく前期も終了し、各自帰省し、酸ケ湯合宿を終えて上京した選手はみんな元気であった。佐々木昌、渡辺から酸ケ湯の模様を聞いて当初計画した練習が軌道に乗っているように思われたし、故障者のないのがなによりであった。後期練習を前にして、三年、四年で合同の練習スケジュールが検討され、実行にうつされた。この後期における練習は、各種目別が主になりながらも、基本的には長距離走破に主目標がおかれ、距離ばかりでほなく、アルベン、飛躍陣も、これが基礎になった。そのため前年までの走行距離に比して、百五十%ぐらいは走っていたものと思う。前年まではインタ一バル走法が主であったが、本年は休みのない長距離走法が毎日であった。これが終了してなおまた、インターバルに入るといぅことで極力走力に力点をおいたのである。
十月末、合宿所完成のころには新人も見違えるほどの耐久力をつけていた。距離陣は二0キロメートルはなんとも思わなくなった。秋のタイムレースは一時間以上のものばかりであった。アルペン陣もよく走った。この頃になってようやく宿舎も完成した。新合宿所の落成式は、先輩諸氏並びに大学当局の多数の列席を賜わり、伏見稲荷の神主に来ていただいで盛大にとりおこなわれた。
四年生も約一力月間新合宿所の木のかおりにひたって寝たことである。この年は前年のように大学でも安保斗争のような騒ぎもなく、比較的スムーズに進み、われわれも各冬期合宿に入っていった。 (完・新合宿所建設の節)
# by tomonski | 2008-05-05 20:15 | 五十年史再読
改めて「早稲田大学スキー部五十年史」を読む  「創立のころ」
「創 立 の こ ろ」
                      小 川 勝 次(大正12年)

霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってからも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。

 私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。

ちょうどその頃、山岳関係者の中からも部の創立を目指して運動を始めていることが判った。
当時早大には井上寿三を中心として土屋由郎、会田次郎らにより”登山会”と呼ぶ登山愛好者の小さい組織があった。もともとこの井上は登山の経験者ではなかったといわれるが、その人柄をしたってか、次第に会員が増加し、この登山会のメンバーが部の創立運動を始めたのであった。
元来登山は勝敗を争う純粋のスポーツではない。そのため学校当局も部として公認することには難色を示したらしい。そこで頭の良い連中は、スキーの関係者が部の創立運動を始めているのを聞いて「共に山を相手とし、縁の深いお互いだ、一緒になって運動を展開しよう」ということになった。打診してみると、学校当局も体育会の各部もこの方針に賛意を表した。

そこで両者の話し合いが始まった。前記三名のほか北儀一郎、本山栄三・藤原武夫、舟田三郎、鈴木勇、小笠原勇八、中島泰一郎、八代陽らと会談したこと、またこの中の数名は夜おそく、霜鳥につれられて私の家(当時牛込の大曲にあった)を訪ずれ話し合ったことも覚えている。
話し合いは順調に進んだ。そして部の名称を「山岳会スキー部」とすること、第一回の事業としてスキー合宿を妙高山麓の関温泉で行なうことをきめた。大正九年十月のことである。
山岳会スキー部の合宿は大正九年十二月終わり、関温泉の笹屋と朝日屋の二軒に分れて宿泊し行なわれた。会する者四十余名・スキーでは前記のほか中川太郎・波部光民、渡部良吉、鈴木信三、若林初太郎等でほかに数名の飛入りもあった。

スキー関係者はすべてスキーを持って参加したが、山岳関係ではまだスキーを持っていない者もいた。そこで舟田は、あらかじめ高田のスキー商、山善へ行き、リリエンフェルト式締具のついた立派なスキー十台を借りてきて、これらの人々に穿かせた。このスキーは一度使用したため返却することがでぎず、結局代金を支払わざるを得ないことになった記憶がある。

この合宿に持参した私の装備は次の品々であった(数学は値段)。
スキー(二米・ケヤキ材、リリエンフェルト式締具、山善製、四円五十銭)、両杖(竹製、一円)、スキー靴(網倉製、十二円)・ルックサック(美津濃製、五円)、セーター(美津濃製、六円)、ほかに毛糸製スキー帽、手袋を持ち、乗馬ズボンに太い毛糸で編んだ舶来のストツキングを穿いた。アノラックはまだ輸入なく、シールも持っていなかった。大勢の中には軍靴に巻ゲートル、それに角帽で通した者もいた。
 講師に笹川速雄、小林達也両氏を依頼した。笹川氏は笹屋のご主人で、当時スキー界の第一人者といわれ、山スキーもこまかい技術もうまかった。小林氏は勝れた体力で登山に強く、しかもその技術は日本一といわれ、神奈山の大斜面をあざやかなボーゲンを描きながら降るその見事さは、われわれのあこがれであった。ただ小林氏は高田の小学校の先生をしておられたので、指導を受けた日は少なかった。この両氏は当時の日本スキー界の代表であり、日木スキーの創始期に活躍された高橋進、阿部正量両氏につぐ大物であった。われわれがいきなりこの両氏の指導をうけることができたのは幸であった。

当時ほかの大学のスキー部にはまず北大があり、東京では東大と学習院があった。したがって早稲田大学スキー部は大学スキー部としては四番目に創立されたことになる。東大と学習院も関と赤倉を根拠地としていた。まだ権威ある競技会が行なわれていない頃のことであるから、毎日行なう練習も、各種登行のほか、直滑降、斜滑降、全制動、半制動、全制動回転、ボーゲン、クリスチャニア、テレマーク等の初歩の基礎的な技術が主で、その技術を実際に生かすための登山であった。関温泉の裏に聾える神奈山が最高の目的としてスキー登山された。

早大山岳会スキー部の合宿もこの程度の域を越えることなく、巧い者もいて、笹川氏をして”もうおまんたには教えることがない”と嘆かせた場面もあったが、半数以上は初心者だった。
ほとんど高田産のスキーを穿き、滑降を楽しんだ。朝日屋に合宿をしていた連中が、笹屋の待遇より悪いといい出しもめたこともあったが、まあ和気あいあいの一週間だった。宿料はいくらだったかはっきり覚えていないが・一日二一食付きで八十銭位ではなかったかと思ぅ。
一日熟達者だけ十名ばかりで・燕をまわり赤倉へ出かげたことがあった。登りきって丸山の急傾斜を一気に降り、赤倉で練習している人々を驚かせたが、帰路になって岩田繁三だけは燕を迂回しないで、大胆にも大田切の断崖を横切り夜になって戻って来た。帰りがおそいので遭難したのではないかと私たちを心配させた。

この大正九年の二月に高田で開催された第八回全国スキー大会の大学高専組に六名の選手が出場した。蒔田、霜鳥、東条、中川、山田、幸田の六名で、早大スキー部はじめての競技出場である。コースは高田市郊外にあり・レルヒコースと呼ばれている旭山から黒田山を経て陸軍射撃場までの三キロ余で、最後に平地はあるがほとんどが滑降コースである。この競技を当時内地では長距離競走といい、同時出発であった。スタートとゴールを同一地点とし、30秒おきに出発する現在の距雛競技はまったく考えられなかった。このコースの記録は大正二年の二十一分であったものを、高田中学の選手によって十二分台にまで更新されていた。この競走で中川新が優勝した。しかし記録は中学選手が十三分台のタィムを出したのに対し、中川の記録は二十四分であった。翌朝の高田日報は次のような記事をのせた。"この競走はさすが大学選手のこととて悠々閑々二十分を過ぎるも姿を見せず、ようやく二十四分にして早大の中川選手ははうようにして決勝線に入れり”と。
附記
1、早大選手は翌大正十年のこの大会には出場しなかった。同十一年池の平での東京スキー倶楽部主催の"日本スキー選手権大会"には出場し、爾来、翌年から開催された。第一回全日本ス キー選手権大会"からは毎年出場し、かがやかしい歴史をのこしている。

2、上記のようないきさつの上、山岳会スキー部は創立されたが、学校体育会への加入は許可にならず、加入が承認されたのは大正十年九月で、それもまだ仮加入といぅことであった。正式に承認されたのは翌大正十一年である。その際の代表委員は山田広と小笠原勇八、委員は山岳から中島泰一郎、土屋由郎、会田次郎の三人、スキーから中川新、東条義人、蒔田庄太郎の三人が選ばれた。さらに、山岳会スキー部が発展的に解消して山岳部、スキー部が夫々独立して 加入承認されたのは大正十二年であった。(完)
# by tomonski | 2008-04-18 13:47 | 五十年史再読
総会と卒業生を送る会が行われました
平成19年度の総会があわただしく終わり、スキー部の卒業生5名を送る会が大隈記念タワーにある校友会サロンで行われました。
宮内スキー部長(ご夫妻)、倉田監督以下スキー部員25名(アルペンが大会出場で欠席5名)が参加して、これまでにない賑やかな送る会になりました。
卒業生:高尾康平、嶋田翼、岩船雄介、馬場智子、若井愛恵
OBは23名、遠くは蔵王から岡崎さんがご夫妻でお出でになりました。
例年通り、卒業生に記念の盾を贈呈し卒業を祝い、また、今年の特筆すべきは、全日本における女子(角田、小林、丸山)のリレー初優勝、男子(立崎、柏原)のスプリント初優勝があり、それぞれに記念品を添えて表彰状が手渡されました。
OB参加者:(順不同・敬称略)
遠藤栄二、中塚晃介、山下幸子、村山房夫、藤沢佳応、古賀久国、財前孝広、山田脩一、佐々木亮、岡崎治彌、藤田武四郎、高波松男、渡辺巌、入江保也、青山義正、佐藤昭、久蔵正、宮島啓、倉田秀道、伊澤暢正、横山康彦、渡部新、依田敬一

(報告:依田敬一)
# by tomonski | 2008-03-27 20:37
集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光・・
3月25日の卒業式を前に、14日(金)、リーガロイヤルホテル東京で体育各部卒業謝恩会が開かれました。
スキー部の卒業生は5名ですが、高尾康平、嶋田翼、岩船雄介、馬場智子が出席しました。(岩井愛恵が都合で欠席)
会場には各部の卒業生500名前後と大学関係者、稲門体育会関係者が多数集まり、大学を代表して白井総長、稲門体育会を代表して河野洋平会長が祝辞を述べて卒業生を祝福しました。また、卒業生から関係者への謝辞が述べられ、鏡割りとともに賑やかなパーティーとなりました。早稲田スポーツの発展を担った卒業生の皆さん、本当にご苦労様でした。社会でのご活躍を心より念願いたします。
主催:早稲田大学体育各部実行委員会
稲門スキー倶楽部からの出席者:
倉田秀道監督、山田脩一体育委員、佐々木亮会長、依田敬一幹事長
左から嶋田翼、佐々木会長、宮内部長、倉田監督、岩船雄介、馬場智子、手前・高尾康平

早稲田大学スキー部のホームページにリンク
# by tomonski | 2008-03-15 10:32
「瑞宝大綬章」受章のお祝いにWasedaSkiの防寒コート
元早稲田大学総長であり、スキー部長として大変お世話になった西原春夫先生が、昨年、秋の叙勲で瑞宝大綬章を受章されたことはご既承の通りです。何かお祝いをと思いながら遅くなりましたが、佐々木会長と私が2月21日に先生の事務所をお訪ねし、スキー部員・OBが着用の防寒コートと記念グッズのマフラータオルを稲門スキー倶楽部として差し上げてきました。
先生は、現在、特定非営利活動法人「アジア平和貢献センター」の理事長としてご活躍です。
今年80歳になられますが、相変わらずスキーをおやりになっているそうです。基礎体力作りに週1回の水泳で必ず1300m泳ぐとのお話には大変感動しました。
4月には白井総長ほか有力者が発起人となって盛大に祝賀会を開くとのことでした。

報告:依田敬一
# by tomonski | 2008-02-22 18:42
早稲田ナイト in 野沢 (国体の開催に合わせて)
今年の冬季国体が2月19日から野沢温泉で行われました。
稲門関係者が役員として、選手として各地から大勢集まりましたので、開会式のあと地元野沢温泉の森行成さんが音頭を取って恒例の早稲田ナイトの開催となりました。
賑やかに、そして賑やかに、小泉太郎君の指揮早稲田大学の校歌も4番までありました。

参加者:(敬称略、順不同)
藤田武四郎、大島辰雄、佐々木亮、森行成、佐藤昭、佐藤英樹、倉田秀道、相原正裕、橘良弘、渡部研二、羽田勤、高橋幸一郎、佐藤恵美子、小泉太郎、依田敬一


報告:依田敬一
# by tomonski | 2008-02-19 19:28
応援日記Final:男子2連覇ならず、女子ともに準優勝(81インカレ)
赤倉で行われたインカレの最終日に学校対抗のリレーが行われた。女子は、角田、丸山、小林で圧勝、リレー2連勝を飾った。男子は途中まで2位を大きく引き離し優勝かと思われたが惜しくも4位に終わった。この結果、総合成績では男女とも2位(準優勝)だった。
詳しくは、学連のリザルト(下記URL)をご覧ください。
早大スキー部:http://www.wasedaski.net/
学連:http://www.isj.gr.jp/00-01/
# by tomonski | 2008-01-17 15:56
コンバインドに宮本優勝ほか、入賞5,8,10
# by tomonski | 2008-01-14 21:50
OBの岡田利修君が現役を激励、OBと交流
平成13年卒業の岡田利修君が大会地の赤倉を来訪、現役の選手をねぎらい、倉田監督と一緒にOBの部屋に挨拶に見えました。ちょうど、部屋には藤田さん、伊澤さん、青山さん、佐々木さん、依田がいましたのでにぎやかな談義となりました。

報告:依田敬一
# by tomonski | 2008-01-14 20:35
インカレ用、スキー部のSuperHouse
手前がインカレに用意したスーパーハウスです。倉田監督の要望にこたえて、稲門スキー倶楽部がお手伝いし初の試みで現地クロスカントリー会場のスタート地点近くに置きました。選手の皆さんから大変感謝されています。
OBの皆様ありがとうございます。
報告:依田敬一
# by tomonski | 2008-01-14 17:12
荻原健司議員が来訪、開会式に出席しました。
1月11日、インカレの開会式が妙高市の体育館で行われましたが、この席に早大スキー部OBの荻原健司議員がゲストとして出席しました。式終了後、2階席で見守っていた稲門スキー倶楽部の関係者に挨拶に見えて記念の写真を収めました。

報告:依田敬一
# by tomonski | 2008-01-11 18:11
応援日記:インカレが始まる。赤倉に来ました。
10日、今日の夕方、赤倉に来た。いよいよインカレが始まる気分に自分のモードを切り替える。夕食のテーブルに川口の応援の皆様の姿がある。玄のいい顔合わせだ。学生の諸君の表情がとてもよい。明日は、アルペンSGで幕開けだ。応援団が逆に力んでしまう。
稲門スキー倶楽部会長:
佐々木亮
# by tomonski | 2008-01-10 20:47 | 行事
感激の優勝記念タオルを持って、エールを送ろう
昨シーズン、青森県大鰐温泉にて行われた第80回全日本学生スキー選手権大会において、早稲田大学スキー部の男子が40年ぶりに一部総合優勝を勝ち取り、女子が一部準優勝およびリレーに初優勝を飾ったことは記憶に新しいところであります。
この快挙を祝し、又、来るシーズンにおける各選手の活躍を祈念してインカレ優勝記念のスポーツタオルを製作致しました。
優勝の思い出に、そしてスキー部躍進の財源援助にぜひともご購入いただきたくお願い申し上げます。
インカレ優勝記念スポーツタ方ルは、3,500円 (2本セット送料込)です。
下記郵便局口座に代金をお振込み下さい。

口座番号 : 00150-7-360629 口座名義 : 稲門スキー倶楽部
お問い合わせは:
稲門スキー倶楽部事業部広報担当
  財前孝広 中村好二 
# by tomonski | 2007-12-31 20:23 | メモリアル
1月11日からインカレです。赤倉温泉に行きませんか!

第81回全日本学生スキー選手権大会は、新潟県妙高市赤倉で行われます。昨季の大鰐温泉での感激を再び味わおうではありませんか。頑張る選手を応援し、2連覇の後押しをするのはあなたです。

開催期間:2008年1月11日開会~17日閉会
宿泊:赤倉温泉「春秋の宿 大丸」(OB田子さん経営の旅館です。大丸のホームページ
電話:0255-87-3000 1泊2食8,000円)
1月12日(土)18:00~現地稲門会を行います。お近くの方をお誘い合わせて大勢のご参加をお待ちします。参加費:宿泊者5,000円、会合のみ10,000円です。
また、17日閉会式の後、学生はすぐ解散せず大会の慰労会を行いますのでこれにもぜひ参加し学生との交流を深めましょう。

参加申し込みを下記連絡先で受け付けています。お気軽にどうぞ。
連絡先:幹事長・依田敬一(yodak1jp@yahoo.co.jp)
# by tomonski | 2007-12-25 16:59 | 行事
12月13日、年末総会を行いました。
今年の古希のお祝い受賞者は、見谷昌禧さん、池田直邦さん、吉田猛さんの3名です。
当日は見谷さんが代表してご出席されました。おめでとうございます。

事務局:横山康彦
# by tomonski | 2007-12-13 21:38 | 行事
卒業45年、50年のホームカミング、早稲田の杜へようこそ
早稲田大学創立125周年の式典前に、山田脩一さんが企画して卒業45年(昭和38年卒)、50年(昭和33年卒)の世代が集まった。ゲストに会友の浅香夏子さんと三宅和子さんのお二人を招いた。以前スキー部長として大変お世話になった故林容吉先生のお嬢様である。出席者は、S33卒:多田修さん、久蔵正さん、富樫道広さん、S38卒:大島辰雄さん、佐々木昌平さん、佐野巽さん、渡辺巌さん、山田脩一さん、そして稲門スキー倶楽部から佐々木会長と依田が出席した。
報告:依田敬一

# by tomonski | 2007-10-24 18:43
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